東日本大震災と原発事故があった2011年に小松左京という作家が亡くなりました。
その人には「戦争はなかった」という短編小説があります。
過酷な戦争体験を生き延びた人が、戦争があって今があることを大事にしているのですが、回りの人たちは「何を言ってるんだ。戦争はなかった。」と言う。
「いや。戦争は確かにあった。戦争があったから今がある。風化させてはならない。」と日比谷でプラカードを掲げたら、精神異常者として護送されてしまった。というお話です。
(労働者は助け合い学び合うことで目的を達成する。E501空調修繕。)小松左京は、この男の言葉として「この世界にはどこか痛切なものが欠けている。…同胞の血によってあがなわれた『つらい認識』が、それを通じて獲得されたおぞましい厳しさが、根底的に欠けている。」と言っています。
風化とは、例えば尼崎事故をなかったことにする。あるいは東日本大震災と福島第一原発事故をなかったことにする。あるいは国鉄分割民営化で死んだ仲間、クビを切られた仲間もなかったことにする。
それと自分が今立っている世界、自分が生きていることを無関係にする。そう言うことではないかと思います。
(651系ダウンライトの交換。その作業をやりやすくするのに自分は何をやるか。小さなことでもみんなで協力します。)無関係の究極の姿は「死」の選択になります。
私たちが、国鉄分割民営化も尼崎事故も、「3・11」もことあるごとに据えなおすのは今をしっかり生きるためです。
人として助け合わなければ、生きて行けないし、何事もなし得ない。便利さや万能感の中で、人自体が弱くなっていないでしょうか?
「労働組合は仲間を助け、一緒に生きるためにある。」だから風化などさせないのです。この労働組合の原理を据えなおすことを時代が求めている。
その様に考えます。