1月19日、動労水戸は照沼靖功組合員に対するJR東日本の昇進差別を争う新たな裁判を提訴しました。
以下、訴状での照沼組合員の訴えを抜粋して紹介します(小見出しは編者加筆。2回に分けて掲載します)。
①鉄道員になる夢叶える私は2005年(高校3年)の夏、小さい頃からの夢であった「鉄道の仕事に就く」のを実現するため、JR東日本を受験することを決意しました。
進路指導や学年主任、担任などあらゆる先生方から「JRは試験の合否を判断できない。いくら内申書の中身が良くても、合否が見えないから、他の企業を受けないか?」と言われました。
(中略)夢を叶えたいという想いから、そのままJR東日本を受験しました。無事合格し、在学中の先生方のご指導のお陰で、2006年4月1日の入社式を迎えることができました。
2006年度採用社員は全社で1200名ほど、水戸支社採用は55名、うち車両センター配属は6名でした。
入社式終了と同時に新入社員研修が始まりました。新入社員研修の際に担当講師が「入社したら、学歴は関係ない。みんなスタートラインは一緒だ」と言ったことを入社して10年以上経った今でも鮮明に覚えています。
自分よりも学歴の高い人間には敵わないと思っていた私にとって、多少なりとも希望を持たせてくれた言葉でした。
②東労組・国労…労働組合ってなんだ?
新入社員研修終了後、勝田車両センターに配属になり、初日の勤務終了後、東労組の勝田車両センター分会の執行部数名に組合勧誘されました。
正直、車両センターの同期6名共、労働組合への知識などなく戸惑いがありましたが、同期の人間が担当講師に連絡し事情を話したところ、「東労組なら間違いないから大丈夫だ」と言われたことを受け、同期6名で東労組に加入しました。
入社して1ヶ月、同期との人間関係にも慣れ、新たな職場に馴染めるかどうか、戸惑いがある私にとって、担当講師の言葉は何よりも信頼できるものでした。
それから郡山総合車両センターへ異動するまでの1ヶ月間ほどは、実習期間のような扱いです。機動A班に所属はするものの、工具の整理や詰所の清掃などを通して、検修作業に必要なことを教わりました。
同年6月には郡山総合車両センターに異動し、10月末までの5ヶ月間が机上教育や技術実習、11月から翌年4月末までの6ヶ月間が実際の現場を体験する現場実習、計11ヶ月間が新入社員基礎技術教育の中身です。
仕事を覚えるというのもとても重要なことかもしれませんが、それ以上にチームワークや人とのつながりといった、検修作業の現場で重要なことを学ばせることが主な目的だったように思っています。
その中で一番印象的だったことは、とある現場実習の日、私に仕事を教えて下さっていた方は、仕事の組み立て、担当者の割り振り、知識・技術力共に優れた方でした。ただその方は、主任でもなければ、車両技術係でもなかったのです。
本人には聞けませんでしたが、何故なのか他の班の方に聞いたことがあります。その時の回答は「あいつは国労だからしょうがない」というものでした。
この時に、自分の所属する東労組の他にも労働組合が存在することを知りました。
新入社員研修の時に言われたことを純粋に信じて、研修や実習をしてきた私にとって、いくら仕事ができようが、所属する労働組合によって試験の合否に関係してくるという事実はとても衝撃でした。
それから、労働組合について少しずつ興味を持つようになったことを覚えています。
郡山での実習期間中は、21名いた同期(仙台支社4名、盛岡支社3名、高崎支社3名、新潟支社5名、水戸支社6名、高卒は全体で7名)に負けたくないという想いから、積極的に現場の方に質問したり、当時あった図書室で検修作業に関わる本を探して勉強するなどしていました。
入社し、高卒は1等級、高卒以外は2等級の発令となるため、1年目に高卒の人間は2等級試験を受けることになります。
2等級試験は、面接だけの試験のため「受からせる試験」と言われる試験でもあり、郡山にいた7名は無事合格しました。
③勝田車両センターの現場へ
2007年5月、勝田車両センターへ異動となり、検修作業の基本とも言える「交番検査(90日に1回必ず行う検査のこと)」の見習いのため、交検A班に入りました。
交検班は、A、B、Cの3つに分かれており、6名の同期は2名ずつそれぞれの交検班に、私は3名いる大卒の1名と同じ班に配属されました。
勝田車両センターの特徴は、交直流電車(交流と直流の電源、どちらも対応している車両)を所有するJR東日本最大の車両センターであり、国鉄時代の車両から現代の車両まで様々な車両を所有しているということです。その分、学ぶこと・覚えることも多く、悪戦苦闘しながらも精進していました。
交番検査の見習いが終了した10月、機動A班(営業運転中に発生した不具合などの臨時検査を主に行う業務)に6名全員が配置され、全く異なる業務で戸惑いながらも、同期6名で助け合いながら日々業務にあたっていました。
翌2008年3月までに、1年後輩に仕事を教える立場として6名全員が交検班に再度配置され、まだまだ覚えることも多いながらも、後輩の指導にあたることで共に成長していくという過程を経験することができたと思います。
2009年の5月からは再度機動A班に配置となり、同時期、大卒の同期1名が技術管理室・車輪管理に配置になりました。大卒・高専卒の4名は2007年度に指導職試験を受験し、2009年2月から4名全員が指導職発令になっています。
2009年11月からは、機動A班から技術管理室・車輪管理を任され、期待に沿えるよう努力してきました。
2012年4月には、大卒2名が主任職の発令を受け、もう1名の高卒の人間も指導職の発令となり、同期6名の中で係職は私1名となりました。
2013年4月には残りの大卒・高専卒も主任職の発令になり、2016年度開始時点で、1名が主務職(主任職の1つ上の役職)発令となり、3名が主任職、1名が指導職、私だけが係職でした。
④車輪管理の仕事に誇りを持って
入社してから、同期6名がほぼ同じ道を歩んできて、同期ということもあり、比べられることも多々あることは覚悟していましたし、それによって若いが故にイライラすることもありました。
だからこそ、他の5名には絶対負けたくないという気持ちから、常に効率の良い方法を考え、少しでも向上するように意識しながら仕事し、同期の中でも劣る部分は無い、むしろ勝る部分もあると自分なりには思っています。
車輪管理を任されてから7年近い期間、担当者が自分ひとりという環境で日々業務をこなし、十分な業務知識を身に着けてきたと思っています。最近では自分の担当外の業務についても人手が足りない場合にはフォローに入るなど、積極的に業務にあたっています。
だからこそ、同期の中で自分だけが試験に合格しないことに苛立ちを覚えること、更には、技術管理室は主任・主務がとても多い班であり、それら上位職の人間と肩を並べて仕事をする上で、「何故、自分だけが?」と思うこと、後輩が続々試験に合格していくことでモチベーションを保つことが大変であることも事実です。
しかし、勝田車両センター所属する700両近い車両の車輪状態全てを把握できているのは私だけであるという、鉄道の足とも言える車輪管理という業務を担う労働者として誇り高く仕事をすることを常に心掛けていました。
(後半に続く)